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間接度の高いコミュニケーションとは

オウム真理教の場合、ホーリー・ネームを介した関係の原点は、言うまでもなく、教祖麻原と信者自身との関係であろう。信者たちが希求した、彼らにとって最も望ましい純粋な関係の極致には、教祖と信者の間の、直接に身体的な関係があった。そうした関係を現実にもたらすために、彼らは「イニシエーション」なるさまざまな技術を導人した。イニシエーションの原点にあるのは、シャクティ・パットというヨーガの技法である。シャクティ・パットとは、簡単に言えば、一種のマッサージである。オウムは、身体を一種の波動エネルギー(クンダリニー)の波動として捉えるのだが、シャクティ・パットとは、教祖の親指を信者の額にあてがうことによって、教祖の最も純粋な波動を信者の身体に流入させる技法である。したがって、これは、およそ考えられる限り、最も直接性の高いコミュニケーションである。ここでは、他者の身体が、いかなる媒介も経ずして直接に自己の身体の内側に参入してくるのだから。このシャクティ・パットを代理するために開発されたのが、さまざまなイニシエーションであり、その中でも最も重要なのが、教祖の脳波を信者の脳に電送するとされたヘッドギアPSIであった。

それは、コンピュータや携帯電話のネットワークのパロディのようなものである。本来最も自然なものとして受容されるべき家族の内的な関係を偶有化してしまう別の関係、それは何か?今や、答えの見通しを得た。それは、他身体が自身体に参入してくるかのように感受される、極限的に直接的なコミュニケーションではないだろうか。客観的に捉えれば、これは、身体の共振・共鳴の関係であって、実際に、ごく初期の母子の間身体的な関係は、まさにこうしたものであろう。だが、その後の親子関係の堆積は、こうした関係を背後に覆い隠し、また排除しもするはずだ。したがって、極限的に直接的な関係を、本来的なものとする視座からすれば、家族内の関係すらも、非本来的で偶有的なものとして現れることになるに違いない。「前世名」を雑誌に公開する若者は、地上のどこかに散らばっている「前世」の未知の仲間が、物理的な距離を越えて、まるでテレパシーのような仕方で彼(彼女)の「前世名」に感応してくれることを期待している。彼らは、幻想の前世の関係に、極限的に直接的なコミュニケーションを投射しているのである。

したがって、次のような仮説を得ることができる。現代社会には若者たちを中心にして極限の直接性を志向するコミュニケーションへの強い欲望が、広く浸透しているのだ、と。インターネットやウェブの普及を規定している、ひとつの、しかし有力な要因は、こうした欲望ではないだろうか。つまり、インターネットによる関係性に、あるいは携帯電話による接続に、こうした極限の直接性が投射されているのではないだろうか。インターネットや電話は、無論、物理的には、はるかに遠く隔たった身体同士を接続する。その意味では、ここに実現するのは、間接度の高いコミュニケーションである。しかし、当事者には、むしろ、インターネットは、直接性の高い、ほとんど触覚的なコミュニケーションの場として体験されている。このことは、インターネット普及の圧倒的に強力な要因がポルノグラフィにこそあったという、みもふたもない事実にも端的に現れている。シェリー・タークルによれば、MUDのようなテキスト・ベースのコミュニティにおいてすら、同性愛関係を含むユーザー同士の(文字を通じた)セックスなど、触覚的な身体性に関与するコミュニケーションが広く行われていた(タークル『接続された心』)。一部のメディア学者が「カリフォルニアン・イデオローグ」などと名づけているニュー・エイジの思想家たちが、インターネットに特別な意味を与えるのも、それが、身体を融合させるような、強い共同性の感覚を呼び起こすからである。

梅田望夫は、ブログによって、誰もが不特定多数の他者たちに情報を発信しうるインターネットの世界を「総表現社会」と呼んでいる(梅田『ウェブ進化論』)。ブログは、私的な日記を公開するようなものである。言い換えれば、ブログを読まれるということは、他者が、私的な内面にダイレクトにアクセスしているようなものである。極限的に直接的なコミュニケーションとは、いわば、裏返しのコミュニケーションである。ここで、「裏返しの」と形容したことは、次のような状況を想像してみれば、すぐに分かる。普段の生活では気が弱い内向的な男が、サイバースペース上では、ハンドル・ネームを使い(あるいは匿名で)激しく暴力的で外向的な男として振る舞うということがよくある。このとき「真の自己」は何であり、「仮面」は何だろう、と問うてみるのだ。通常のコミュニケーションの原則に従えば、スクリーンの上に直接に現出している「暴力的な男」は、その人物の虚偽の像であって、単なる仮面に過ぎず、本当のところは、その人物は、「ひ弱な男」なのだ、と説明される。しかし、インターネットに関しては、逆の説明の方がリアリティをもつ。仮想現実の上に提示されている「暴力的な男」こそは、「内向的な男」という現実の社会生活の「仮面」の下に隠されていた、より一層深い「真の自己」なのだ、と。

つまり、サイバースペースのコミュニケーションにおいては、一般のコミュニケーションにおいては深く秘匿されるような内密な核の部分を、人は、他者に直接に曝すのであり、また他者は、その内密な核に直接にアクセスしてくるのだ。コミュニケーションの直接性の感覚は、パソコンを端末とする場合よりも、電話、とりわけ携帯電話の場合により一層強くなる。鈴木謙介と辻大介は、若者の携帯電話の使用に関して、少しばかり興味深い調査結果を報告している(鈴木・辻「ケータイは反社会的存在か?断片化する関係性」)。それによると、「携帯電話の電波の入らないところにいると不安になる」者ほど、あるいは「着信がないか何度も確認してしまう」者ほど、ひとりでいること、ひとりで食事することを辛いと感じる傾向がある。言い換えれば、携帯電話への着信が、あるいは電波が友人とともにいること、友人と隣接していることの代理となっているのである。携帯電話をめぐる感覚を照らし出すには、二〇〇一年に制作され、アニメに関心のあるオタクたちの間で評判になった短編アニメ『はしのこえ』が役に立つ。

新海誠の個人製作の作品であるにもかかわらず、クオリティがTVアニメと比べてほとんど遜色がなかった、ということが、このアニメが流行した一因である。このアニメの主題は、タイトルが示すように「声」、もう少し特定すれば、携帯電話からの声である。主人公は、恋心を抱き合っている中学生の男女だ。ある日突然、女の子の方が、異星人と戦う国連宇宙軍の兵士に選ばれてしまう。二人に不意の別れが訪れたのだ。その後、二人を繋ぐ、唯一のコミュニケーションの手段が、携帯電話によるメールである。だが、女の子の方は、防衛軍の一員として、地球以外の惑星・衛星にいる。それだけの距離があれば、メールといえども、すぐには届かない。最初は、数時間程度の遅れでメールは相手に届いていたが、女の子の勤務地は、地球からどんどん遠ざかっていく。最後には、メールが相手方に届くまでには、何年もの時間がかかることになる。このアニメには、ほとんど物語らしい物語はない。物語としては、極端に貧困である。この物語を貫く切なさは、ただ、ひたすら、「メールがなかなか届かない」という事実からくる。ケータイを用いてすらも、二人は、遠く隔たっている。このことが哀しい。